タイトルのような計画が本当にあるとは思えませんが、結果的に同じような事態が進行している気がします。 見えるものではなく、見えないもの、、、意識にしか力はないのです。 自分らしさがないと、自分特有の意識でいないと、人は幽霊と同じなのです。 いつ破産するかわからない金融制度の中で貯金を積み上げ、良い学校を目指し、一流企業に入ろうと頑張る、、、
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タイトルのような計画が本当にあるとは思えませんが、結果的に同じような事態が進行している気がします。 見えるものではなく、見えないもの、、、意識にしか力はないのです。 自分らしさがないと、自分特有の意識でいないと、人は幽霊と同じなのです。 いつ破産するかわからない金融制度の中で貯金を積み上げ、良い学校を目指し、一流企業に入ろうと頑張る、、、
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CBCテレビのゴゴスマという番組に、大人の人生相談があります。
本日と明日の二回にわたって、私も出演。
すでに本日の分は終えて宿に戻ったところです。出張中が一番ゆっくりできるのですが、忘れていた締め切り原稿があるので、夜は原稿書きになりそう。
本当なら、熱田神宮やお城にも行きたいけど、せめてうなぎのおひつを食べる程度に。
ゴゴスマは初めて出演しましたが、出演者とスタッフがみなまじめに取り組んでいたのが印象的でした。
明日も午後2時半ごろから大人の人生相談がありますので、ぜひごらんください。
今日は、グリーンの池田山ファッションで出演したのですが、やや渋すぎて、おじいちゃんじゃないか、、、の反応が多かったみたいです。事実だから仕方ないけど、悔しいので、明日は持参している白系統の
麻の池田山ファッションで出演する予定です。明日は若返るぞ。(無理か、、、)
立って話す形なので、全身が出てしまうため、本日と同じ靴だとやや問題あり、、、(誰もみてないか)
あとで、うなぎ屋さんを見つけながら、靴を買おうと。
今週は放送づいてる週です。何といっても日曜はラジオ競馬ニッポンでの大イベントがあり、翌日がニッポン放送での収録。そして今日と明日がCBCテレビでの収録になりました。
ラジオのCBCではニッポン放送の人生相談をやってるみたいで、今日も反響があったようでよかったです。でも、テレビ的にいうと、こちらはTBSなのか。
TBSでは、大昔、長期アルバイトをした経験があります。アルバイトから嘱託になり、TBSには2年半ほどお世話になりました。そのころ、なんと、飯島秀行先生も学生時代だと思いますが、TBSでアルバイトをしていたという話しを聞いたことがあり、勝手にですがご縁を感じます。
しつこいですが、日曜のラジオ競馬ニッポンでは、その予想がけっこうな線をいき、この馬は絶対、、、という感じで押したストレイトガールが一着。二番目に、私のもっとも狙っている馬として押したウキヨノカゼが3着に入るという結果に。もう何度も言ってるか、、、。
しかし、ゴンドラ席という上から見た競馬場の景色はとてもきれいでした。
今週は土曜日に、マドモアゼル・愛が読む「時局」があります。翌日曜日の無料セミナーは、「元気になる生き方、元気を失う生き方」と題してお話しさせていただきます。日曜日の無料セミナーは午後2時からです。お待ちしています。
土曜日はMI池田山ハウスはオープンしていますが、時局のセミナーがあるため、ほかに特別な無料セミナーはありません。
季節の変わり目にソルフェジオ周波数を取り込む
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今週の土日のMI池田山ハウスでは、両日とも午後2時から一枚布研究会を行います。 一枚布をどのようにまとうか、、羽織るか、、、その実験です。興味のある方、アイデアのある人はぜひいらしてください。 服の原点ともいえる一枚布の可能性を体験する無料会合で、布の用意はあります。一緒に考えましょう。 服革命に関心のある私ですが、原点にあたる一枚布での研究は避けて通れないもの。服ありきの前に布ありき、、のはず。 日曜日は午後2時から一枚布研究会のあと、続いて無料セミナーを開催します。テーマは時事ネタとなりますが、「ファルクスワーゲン問題とマンション傾き問題にみる共通点」と題して行います。 世間を騒がせているフォルクスワーゲンのジーゼル問題ですが、技術的には本当ならそれほど問題でもなかった、、、という考えも。 なのに、なぜ、、、経済効率、競争原理によって、不正に導かれた、、、と誰もが考えがちですが、果たしてそうなのでしょうか。 また、日本で騒がれている、マンションが傾いた問題も、大手ゼネコンが手掛けたマンションであり、手抜き工事にしては大胆すぎます。 ミニ無料セミナーですので、多少うがった見方となることはご承知いただいた上、いま、大企業破壊工作が行われる可能性などに言及したいと思います。 関心がある方はいらしてください。 セクシャリティ解放セミナー、あと少しで定員に。 マドモアゼル・愛 公式SHOP |
その昔、ウラヌスの時代は、黄金時代と呼ばれ、人はいくらでも長生きでき、生きること自体が楽しかった。 しかし、ウラヌスは性的に放縦であったためか、息子であるクロノスの嫉妬を買う。 クロノスは父ウラヌスのおちんこを切って海に捨ててしまう、、、 その泡から色々な神々が生まれるというのは、なんだか日本の神話にも似たような話しがあったような気がします。 ウラヌスは天王星、クロノスは土星。昔、天王星原理で動いていた幸福な時代は、突如土星の造反によって変化を遂げたのです。 現代はといえば、もちろん、クロノスの時代です。時間に縛られる生活、義務、労働、奴隷状況、、、、原理的には、1+1は2、という物質的な世界。 イメージの力は入りこまず、持っているもの、物質的なものですべての価値が図られる時代がクロノスの現代です。 生きとし生ける者にとって、クロノスの支配は魅力がなく、楽しくない、、、それはコンプレックスを基盤に置いているからです。 何のコンプレックスか、、、というと、父ウラヌスのおちんこをその鎌で切り取ってしまったように、原理として、性の抑圧、喜びの抑圧、義務の過大視があげられます。 クロノスの時代原理を遂行する際には、この抑圧がどうしても必要になるわけです。 時代から喜びを奪っていかない限り、土星の時代を運営することはできないのです。 そのため、時の為政者のほとんどがやることが、民衆の喜びを奪うことになります。時代を支配する原理が冷たい、くそまじめな、金銭重視の姿勢となるのもそのためです。 とくに性の喜びは奪わねばなりません。これだけは時の為政者も管理しにくいものだからです。 宗教支配と性の喜びを天秤にかけさせ、常識を武器に非常識という魅力的な状況を遠ざけさせ、あげくの果てにはエイズまでこしらえて、性を社会の中から抹殺しようと一生懸命でした。 性の喜びの自由は、昔のウラヌスの時代に直結するため、不自由な奴隷の時代を築く際には、これはいけないことになるのです。 宗教で性を抑え込む、、、破たんしやすい結婚制度をおしつける、、、エイズやばい菌を怖がらせる、、、 すべてはウラヌスのおちんこの切断から来ている計画でもありました。 ウラヌスは歳行ってからも好きもので、老人の癖にあちらが強く、好き放題やっていた可能性があります。 そんな生活態度で仕事などできないのではないかと、クロノス的には考えてしまいますが、クロノスは1プラス1は2しかありませんが、ウラヌスは必要な時には必要なものが、すぐに手に入れられる。 それは、天と直結することで、出会いも物も状況も手に入れることができたからです。 今でもウラヌス、天王星にはそうした天才性があります。 ここに来て、原発などクロノス支配のぼろが出てきており、クロノス時代は末期現象を呈して来ています。 戻るのは、再び、古い神の時代、すなわちウラヌスの時代です。 ウラヌスの黄金時代に戻るには、切断されたおちんこを再び、縫合する必要が出てきます。 もちろんイメージでの話しです。国家や機構から性を取り戻すことが個々で必要になってくるわけです。 性を取り戻すというと、老人もHをしてください、、的な話しに前半の流れからそう連想してしまいやすいかもしれませんが、そういうことではありません。 老人のH、、、お相手がいれば個人的にはありがたい話しですが、そういうことではなく、性の復活というもう少し本源的な話しにさせてください。 性=生きること、、、と言っていいでしょう。性エネルギーなしで生きても、物と自分の関わりしかもてない、クロノス的な人生で終えてしまいます。 生き生きと生きるためには、かつての黄金時代のように健康で長生きするためには、どうしても性エネルギーを個々に取り戻すことが必要なのです。 Hが大事なのではなく、Hエネルギーが生きることのベースになることが大事なのです。これをクロノスの時代では、安全を求める気持ちに置き換えてしまっています。 安全を求めて早死にするのですから皮肉ですが、そうした間違いを現代人はおかしています。 実は本日、公式ショップで古代パンツを発売いたしました。 古代パンツというのは、ふんどしスタイルのようなものですが、一切締め付けがありません。 下着を変えて分かったことがあります。洋風のパンツはあれはクロノスが意図して作ったものだという確信です。 もちろん、開発者はそのような考えはなくて当然ですが、実質、体を締める、、、とくにもっともリラックスしなければいけない個所を縛り上げて、人から喜びのエネルギーを奪うように、通常のパンツは機能しています。結果的にですが。 さらに、ゴムや化学繊維が入って締め付ける、、、本当にまずいのではないかと思います。 古代パンツで陰部の締め付けをなくすことで、何が起きるか、、、、解放感と深い瞑想状態が得られるのです。 自然な素材、締め付けがない、、生理的な安心感が与える世界と意識の広がりは想像以上のものがあると思います。 詳細はカートで説明しましたので、ぜひご覧ください。 高級で安全な麻で作られた、ふんどしスタイルの古代パンツ。そして、一枚布で作られた、本物の越中型下着、、二種類があります。 ご希望の方には、開運印を押して、解放されたエネルギーをそれぞれの目的に沿ってお使いいただけるように工夫しました。 不思議なパンツです。どうかご覧になってください。 もう化学繊維やゴムで自分を縛ることはありません。 マドモアゼル・愛 公式SHOP |
なんだか忙しくてブログの更新もなかなかできませんでした。 ブログといえば、これまでの私のブログを一年づつまとめた形で、「愛の日記 ○○○年」のタイトルで刊行することになりました。 本日夕方から刊行するのは、「愛の日記 2013年」です。PDFのダウンロード形式および、SDカードでの形式になります。 さて、以前に聖書について話させてください、、、といったままそれきりになっていましたので、本日からイエスの話しを取り上げたいと思います。 キリスト教も宗教も関係なく、あくまで聖書の言葉やイエスについて、一人の人間が自由に語る、、、という視点でのお話しです。 間違いもあると思いますが、一人の人の解釈や感想であるということで、お聞きくださればうれしいです。 ご存知のように聖書とイエスキリストが人々に与えた影響はとても大きいものがあります。 西洋文明を考えるときに、聖書、占星術、カバラ、バラは、必要なものではないでしょうか。バラについては私の勝手な思い込みですが、バラは西洋人にしかわからない深い意味合いがあるようになぜか感じています。 私が聖書に出会ったのは、中学校がミッションスクールだったからですが、その前に不思議な夢を見ていました。 ある晩のこと、二匹の魚が向かい合わせにいて、それがお互いに回転を始める夢を見て、そのリアルさがとても印象深かったのです。 もちろん、その意味がわかるはずもありません。その後、中学に入り、教会に通うこととなって知ったのは、原始キリスト教会のマークそのものだったのです。 原始キリスト教会のマークは二匹の魚が回転を始めようとする前の状態を描いたものです。それは占星術のうお座のシンボルでもあります。 夢の中で、そのシンボルは幾人もの夢の中に出てきている、、、という印象があり、おそらく何人もの人が同じシンボルを夢の中で見た、、、ということがわかりました。 また、回転するのが本当のシンボルであることは、夢の中で知ったわけで、実際のシンボルは回転している印象はなく、固定された二匹の魚で表現されています。 しかし、本当は回転しているのではないかと、勝手に思っています。回転し出すのを夢で見たからです。 また同じシンボルを幾人もの人が見た、、、という直感は、実際に原始キリスト教のシンボルは共通した魚の画像であり、どれも非常に似ているのです。 占星術シンボルも同様ですが、昔の図柄自体にもしかしたら意味があるかもしれません。うお座に限らず、古代からある占星術シンボルに共通する図柄を一度研究してみたいと思っています。 そんな勝手な連想にすぎませんが、実際に私の中ではうお座シンボル、、、すなわち原始キリスト教会シンボルに導かれるように、キリスト教および占星術と、縁ができることになっていきました。 二匹の魚のシンボルは教会というよりも、イエスキリストのシンボルです。それは同時に春分点がうお座に入る時期と同調し、プラトン年のうお座時代の到来を告げるシンボルであったのです。 二匹の魚に示された内容には、イエスの愛の教え、および、人類がうお座の二千年の時代を迎えたことを意味していたといえるでしょう。 うお座の二匹の魚は、みずがめ座の水がめから流れ落ちる水の中を泳ぎます。 イエスがいう、そのときは近づいた、、、という言葉は、次のみずがめ座時代を暗示する内容であり、聖書は壮大なプラトン年の地球時代規模に即した背景を踏まえて語られていることは間違いないと思います。 聖書が単なる経典や教えの書と異なるのは、そうした大きな背景を持って成立しているからです。 そしてイエスは、そのことを忠実に体現されているように私には思えるのです。 安息日という日があります。ユダヤ教では今なを正しく守られていると思うのですが、安息日には人は働いてはいけないのです。 それは神がこの世をおつくりになって7日目は休まれたことから来ているのだと思いますが、その風習が今なをユダヤ教や他の宗教にも重要なものとして残っています。 イエスの話しは、けっこう最初はそこらへんから始まります。イエスについて語られているのが、新約聖書ですが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書に主にイエスの言葉が伝えられています。 編纂された年代が異なることもあって、ここの福音書にはあるが、こちらにはない、、、こちらにはあるがこの福音書にはない、、、ということがあります。 イエスの語る言葉に共通したものを探すとしたら、古い経典を確実に守る時代から、心と愛を主軸に生きなさい、、、という内容にほかなりません。 そこでイエスは安息日を持ち出し、それを説きます。安息日に羊が穴に落ちた、、、、その状況に際し、本来なら人は働いてはいけないので、そのまま何もしないでおくことが正しいという考えでした。 実際はそんな場面では、もちろん、昔から人は羊を助けていたのをわかっていて、あえてイエスはそういったのです。 イエスは安息日だからと言って、穴に落ちた羊を助けないわけにはいかない、、、安息日だからと言って、人を助けるのと、殺すのとどちらが良いのか、、、という謎かけを行うのです。 イエスが困っている人を安息日に助けた、、、それをルール違反ではないかと、責める人がいたときに、その言葉が出ました。 形だけのルールで人の心が縛られていくことに、明らかな反逆を説いた人がイエスでした。 官僚的なものと人間愛との対立が、聖書の主軸にあることは確かなのです。そして一貫してイエスはそうしたものと戦い、十字架にかけられていったわけです。 イエスが何と戦ったのか、、、この視点が本当は重要なのです。 形を守ることで命と愛を失う時代にイエスは戦ったのです。 当時のイエスがいたところの一体はローマが支配していました。そこで、意地悪な人がイエスを困らせ、敷いては反逆者としてイエスを捕まえることを考えて質問します。 慇懃無礼にイエスに近づき、うやうやしい態度を表面的には見せながら、こう尋ねました。 「ところで、ローマに税金を納めてもいいでしょうか」 イエスは神の国を説いていたわけですから、ローマという実質的なこの世の支配権に対して、反逆者としての位置づけを行うための悪知恵だったわけです。 それを知ったイエスが、「金貨を見せなさい、、ここに書かれているのは、だれの肖像か」とお尋ねになると、イエスを陥れようとしていた人は「カエサルです」と答えます。 カエサルとはシーザーの読み方を古い時代の聖書の日本語訳ではそうしたのでしょう。しかしシーザーというよりもカエサルといったほうがなんだかしっくりくるのも不思議です。 それはともかく、イエスは続けて言います。 「ならばカエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」 税金を払わなくてもいいといえば、イエスは時の権力の反逆者となりますが、この言い方は知恵深い言い方です。 これは、知恵によってイエスが窮地から抜けた話しとしてとらえるのではなく、私は、イエスは誰とも争わない、、、対立しない、、、という生き方を示した内容であると思います。 右のほほを打つものがあれば左のほほも、、、とは有名ですが、そんなイエスが暴力を振るったことも実はあったのです。 それについては、また次回にお話しいたします。 本日夕方より「愛の日記 2013年」刊行開始 公式ショップよりお申し込みください。 マドモアゼル・愛 公式SHOP |
明日の11月1日からMI池田山ハウスでは、冬物の池田山スタイルを用意しています。
外掛け腹巻き おしゃれゲートル「足首美人」 マフラー アームウオーム 暖か前掛け 一枚布コート大小
など。
外掛け腹巻きは、通常腹巻は服の中と決まっていますが、ここでは外掛けになり、暖房とおしゃれの両方を兼ねたものになります。
中に巻く腹巻きでは、どうしても太く見えますので、むしろ外に思い切って帯のような形にした方がおしゃれです。
おしゃれゲートル「足首美人」は、とにかく足、とくに足首を細くスマートにするための暖房兼、美容、健康のためのもの。
レギンスやサポーター類など、足を細くするためのものはいっぱいありますが、まず、ゲートルにはかなわないでしょう。なぜ世界の軍隊のすべてが第一次大戦ではゲートルを使用したのか、、、その理由は健康にもよく、歩くのが楽になったからです。
言葉で言うのもなんだかむなしいので、この体に良いゲートルをおしゃれとして、美容として、暖房として取り入れたのが、おしゃれゲートル「足首美人」です。
マフラーは麻製。巻き方によってはとてもおしゃれで暖房効果が抜群であり、しかも汗が気になりません。
麻は冬にこそ、使った方がよい素材であることがきっとわかると思います。
アームウオームも池田山製のとてもおしゃれなものを用意してあります。ワンピースからのぞいたアームウオームはとてもかわいい印象に。
前掛けは、これも暖房件おしゃれな装いです。お相撲さんの化粧まわしのように、もう少し小さ目ですが、巻きスカートの上に前掛けをつけます。
温かさ、、、色の合わせの美しさで、独特の趣きを感じさせる、池田山スタイルならではの世界を作ってくれます。
そして私が一番お気に入りの、一枚布コートです。たった一枚の布が織りなす装いの世界には、無限の可能性が眠っています。
いくつかの装いを下記の動画に掲載しましたので、ご覧ください。一枚布の魅力は無限です。これまでの体のラインに沿った服という概念がいかに小さく、精神的な限界を感じさせるか、悲しくなるほどです。
動画では右肩から背中にかけて布がきれいに回っていませんが、本来はきれいに隠れます。鏡なしでうまくまとえなかったものですが、決して難しいものではありません。
一枚布には、3メートルと2メートルの二種類があります。どちらも最高の麻製の生地を使用していて、そこに包まれている安心感は、まるで瞑想のように感じられます。
これらすべては、まだカートでの発売はなく、明日からMI池田山ハウスでのみ、お披露目いたします。
どうか1枚布コートの魅力、他の冬物池田山スタイルをご覧になりにいらしてください。
なを、明日日曜の無料セミナーは午後2時から。「微細な力ですべてを変えてみる試み」と題して行います。微細なものにしか、本当の力はありません。
微細なものを通してしか、この世の何ひとつも変えることなどできないのかもしれないのです。その理由、そしてその方法にまで言及できたらと思っています。
11月1日の1が三つも並ぶ日は、動機付けに最適。意思をもってぜひ、MI池田山ハウスにいらしてください。午後二時からセミナー開始します。
希望される方には、一枚布のまとい方も伝授いたします。
一枚布 着装法
最近は音楽づいていて、きょうは港ミライホールでやはり先日と同じチェコフィル及び庄司紗矢香さんの演奏会へ。
池田山スタイルで行きました。庄司さんファンの一人として、きょうはサイン会があったので本当はサインしてもらいたかったのですが、時間的に無理だったため、あきらめました。
音楽ファンの勝手な思い入れから、何か妙なことを言ったりしたら申し訳ないと思い、遠慮した面も。
何が言いたかったというと、私は庄司さんがバッハ演奏にこだわっているのを、あくまで勝手にですが感じていて、彼女のバッハを聞くと、自由に演奏できない葛藤を感じてしまうのです。
世紀の大天才バイオリニストである庄司さんに意見などできなくて当然ですが、メンデルスゾーンやチャイコフスキーのときとは違う緊張を、バッハの無伴奏演奏などで感じてしまうのです。
すごく忠実に、深く演奏されているのですが、これでいいだろうか、、、という思いが出す音にベースになって流れているのを私は勝手に感じてしまうのです。
バッハ無伴奏やパルティ―タ、シャコンヌなどを、いずれ庄司さんが世界最高の演奏をすることは、勝手にですが、私は実は信じていて、その葛藤のさなかにあることがわかるのです。まるで精神病のような言い分ですが、ファン心理としてお許しを。
ファンは本当に勝手なことを言うものですが、要するに無責任な思い入れなのですが、庄司さんの生まれた時の星の配置もわかっているので、他人事に思えない、勝手な思い入れがあるわけです。
ご存知、バッハの無伴奏のバイオリンは、西洋のものでもあり東洋のものでもあるという、凄い曲なんです。洋の東西を超越しています。
それは人の意思や思いを超越した無の旋律とも言える領域であって、どうやって演奏しよう、、、との思いが演奏家の中にあるうちは本当には演奏できない、そういう曲でもあります。
いずれ庄司さんが無になりきることは確実で、その時には、とんでもないバッハが聴けるはずです。
来年の6月にバッハ無伴奏のコンサートがあるようですので、本当に楽しみにしています。果たして、どのような演奏になっているでしょうか。
いいですね、、、こうやってファンは勝手なことを言えるのですから。
さて、聖書の話しの続きです。
今回の聖書の話しは、イエスの暴力については後回しにして、有名なブドウ園の話しにいたしましょう。
聖書の中のどの部分のどの個所だったかなどは、確認してませんので、あえて省略しますが、確かブドウ園だったと思うのですが、とにかく農園で働く人の話しです。
農園には朝から働いた人がおり、次に昼ごろから働いた人がおり、さらに夕方近くに来て働いた人がいた、、、、という内容。
当然、朝から来た人が一番長く働いたことになります。次が昼から来た人です。そして夕方に来た人は、ほとんど働いてない、、、そんな状況でしょうか。
そこに農園主が表れて、皆に日当を与えます。朝来た者に、昼から来た者に、そして夕方から来た者に、農園主は同じ金額の報酬を与えたのです。
すると、朝から来ていた人が文句を言いだします。私は朝早くから働いているのに、夕方から来た人と同じなんて、おかしくないか、、、、と農園主にクレームをつけました。
そして、夕方から来た人は、自分はそんなに働いてもいないのに、朝から働いていた人と同じ金額をもらえるなんて、、、と、農園主に深く感謝したのです。
考えるまでもなく、私たちは、朝から来た人の気持ちがよくわかると思います。
しかし、農園主は次のように言ったのです。
「私は朝早くから働いたものにも、遅く来たものにも、同じように支払ってあげたいのだ」と。
こうしたたとえ話しをした後、イエスはこのように語ったのです。「このように、先の者が後になり、後の者が先になるであろう」
天国とはそういうものだ、、、というたとえとしてイエスは話されました。
私はこの話しを中学校の時に聞いて、どうしても腑に落ちませんでした。
優しい農園主が朝から、昼から、夕から働いた者に、同じ金額を上げる、、、そこまでは、農園主のやさしさとして理解できたのですが、そのあとの、イエスの言葉がわからなかったのです。
イエスは、朝来たものより、夕に来たものの方が先になるといいます。
同じなら、私もわかりますが、なぜ、反対にならなくてはいけないのか、、、あまりに不平等ではないかと思ったのです。
すると教会学校の先生が、こう教えてくれました。
公平な扱いをした結果、一生懸命やっていた人に不満が出てきた、、、、一方、ちょっとしか仕事してない人には、感謝が出てきた、、、だから、逆転するのが天国だ、、、というイエスのお話しなんだよ、、と。
頭があまり良くなかった私は、すぐには飲み込めなかったのですが、やっと理解することができました。
そうか、、、これだけやったのに、、、という不満と、こんなにもしてくれたという感謝、、、、だから逆転したんだな、、、、ということがやっと飲み込めたわけでした。
私たちにも、こうしたことはけっこうあると思います。愛情深い人かどうかの判定法として、「こんなにしてあげたのに、、、」という気持ちが全面に出る人と、「こんなことしかできなくてごめんね」という気持ちが全面に出る人では、大きな違いがあると思うのです。
前者は悪の性質を代弁し、後者は神の性質を代弁していることになります。
無理して1万円をあげて、あんなにあげたのに、、、と思うより、1000円しか渡せなくてごめんね、、、の気持ちが神の思いに近い、、、、
私たちの生活のいたるところで、私たちは神にも悪にもなっていることになるでしょう。
あなたは、あんなにしてあげたのに派ですか、、、それとも、こんなことしかしてあげられなくて派ですか。
その違いがイエス様は、天国と地獄の違いでもあるということを、農園主の話しから聞き取れるようにも思えます。
また機会があることに聖書の話しを、あくまで私の個人的な話しとして、話させていただきたいと思います。
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多くの方々に信頼され、愛されているMIココナッツオイルですが、夏容器に入った恋愛の神様はオイルが固化するため、使い勝手が悪くなる季節に。 そこで先週より、MIココナッツ美容オイルが復活いたしました。冬場はこちらのパッケージの方が使いやすく便利だと思います。 ココナッツオイルはすっかり市民権を得たオイルになり使用されている方も多くなっていますが、美容専門につくられたMIココナッツ美容オイルの評判は、その中でも群を抜いたものがあります。 お肌のトラブルを根本的に解決するオイルとして、安定した地位を占め初めております。お使いいただいた皆様のお声のおかげであり、本当に感謝申し上げます。 MIココナッツ美容オイルは私のホームメイド商品です。丸二昼夜、蝋燭ストーブの上で吸引化されたMIココナッツ美容オイル。 魔女のキッチンで作られたような神秘的な美容オイルとして、驚きの体験談を数多くいただいています。 お求めは、公式ショップまでお願いします。 マドモアゼル・愛 公式SHOP さて、今週の土日のMI池田山ハウスでは、池田山スタイルの冬バージョンを取り揃えております。 マフラー アームウオーム おしゃれゲートル 一枚布コート、、、それに品切れでした古代パンツもご用意ができました。 土曜日のセミナーはありませんが、集まった人で、声を出しあって、思いが一体となった際の共振により、新たなエネルギーを生み出す実験を行います。 午後二時からスタートしますので、いらしてください。 もう少し詳細を語りますと、一人が何等かの思いや希望や体現したい目標などをイメージして、母音を発声します。 もう一人の相手は、その声に合わせて、同じように発声し、声を合わせるようにします。 一人の願いや思いは問いの声となりますが、合わせる人には、その答えとなるものが必ず含まれることになります。 それは共時性であり、同時に作用反作用の宇宙の法則ともなるはずです。 二人が声を合わせることで、そこには、問題と解決の共振が同時に起こらなければおかしいのです。 煙突の空気が吸気と換気を同時に行うのが、自然の法則であるのと同じで、問いがあれば同時に答えがあります。 その実験ですので、非常に楽しいと思います。 一対一、、、また、一体全体、、、の二つの試みで行う予定です。 題して「こだま発声」は土曜日の午後二時からです。 日曜日の無料セミナーは、麻に包まれた瞑想です。一枚布を作って思ったのは、麻を全身にまとうだけで深い瞑想状態が得られるという実感です。 麻はやはり不思議な布ですね。麻の3メートル一枚布に包まれた状態で、うっとりと、、、瞑想を行うセミナーになります。買わせられるのでは、、、の不安は不要なのでご安心ください。大体、まだ値段がついてないので大丈夫です。 麻の布に包まれた安心感は、多くの問題の解決、、というより、問題が問題でなくなるように私たちを導いてくれます。 麻に包まれながら、子供時代の話しや、ふるさとの話、、、自分の帰るところのイメージなど、まったり語りあいましょう。 麻の布に包まれる瞑想は、日曜の午後二時からです。土日とも参加は無料。(お菓子とお茶も出ます) 古代下着お待たせいたしました。 マドモアゼル・愛 公式SHOP |
私たちが知っている歴史や社会の理解は、常にオブラートが掛けられ、悪く言えば洗脳を通してしか、現実に触れられない構造をしていると思います。
自分は洗脳などされてっこないと、誰もが思っていますが、果たして本当にそうでしょうか。
新聞でテレビで、重要なことを二面記事の最後の方に小さく掲載しておけば、そんなに多くの人は気が付きません。
それがどんなに重要な内容だとしても、一面に堂々の掲載されていなければ、人はそれが大したニュースではないと勝手に思ってしまいがちです。
権力にとって多くの人に知らせるのはまずいと思われる情報は、このように、どんなに大切なことでも扱われないとも限りません。
ニュースの順番にしても、最後の方にあっさり伝えれば、それが重要な意味を持つ情報だとは誰も思わなくて当然。情報の印象操作など、簡単にできるはずです。
実際に昭和バブルが崩壊した際には、それに先立つこと数日前に、当時の日銀が貸付けの総量規制に入るという記事を、小さく掲載していたということです。
日銀がお金の貸し出しを渋れば、土地転がしは突然ストップします。今なら誰にでもわかる内容であっても、扱いが小さければ、新聞一面にある、日経600円を超える上昇、、、の記事の印象には勝てません。
しかし、わかる人は「これは大変だ」となり、皆が気づく前にいくらでもいいから売り切って逃げたことでしょう。
こうしたやり方は、今でも同じです。一部の人たちのための利益を保証し、他の大勢の人から奪い取るやり方は、洗脳の成果ですが、時代運営のずるいやり方として、権力者からしてみたら、どうしても洗脳は必要ということになります。
なので、民衆は政府にだまされる構図をどうしてももっていますので、だまされないようにしなければ人生を奪われてしまう、、と言っても大げさではないでしょう。
権力者が言うことは、権力者にとって利益になることです。権力者と民衆の利益が一致するのが良い時代だと思いますが、今は残念なことに利益が反しています。
既得権益など国に巣食っている人が多くなったため、民衆と国の利益が一致しないようになっています。
国には力がありますから、民意をマスコミで抑え、洗脳し、国民から巧みに奪い取るようになっていきます。
選挙をださく虚しい印象でうずめ、若い人が選挙に行かないように、一般大衆が選挙に行かないようにしておけば、少数の力で、国を乗っ取るようなことが可能になります。
実際、少数の賛同者しかいなくても、選挙に行く人が少なければ、それは反対票にならないのですから、少数独裁政治が可能になるでしょう。
日本が独裁とはいいませんが、少数の考えで押し切られていることは事実だと思います。
知らぬうちに、選挙なんて、、、バカらしい、、、と思う気持ちが、洗脳の結果であるとすれば、笑っていられません。
選挙に限らず、あらゆることに洗脳が働いています。世界一の長寿国日本、、、ということですが、本当にそうなのでしょうか。統計分析の方法におかしな点などないでしょうか。
長寿国ということになれば、医療の正当性は担保されます。インチキしていると言っているのではありませんが、ある思惑を通そうと思ったら、それを可能にさせるための洗脳は必ずある、、、のではないでしょうか。
何が言いたいかというと、自分の見方を持たないと危険に対処できない時代に入っているということが言いたいのです。
みんなが言うからワクチンを打つ、、、あとでひどい目にあっても泣き寝入りですので、打つ以上は自分なりに考えた方が得策ではないか、、、と。そうでなければ自分を守れない時代ではないか、、と思います。
原発が必要、、、そんな洗脳はさすがにもう効きませんが、権力者はまだやろうとしています。まるで狂気の沙汰です。すでにフリーエネルギーはあり、そこまで行かなくても、代替のエネルギーは十分です。
高々、電気を得るために、熱湯を沸かすのに危険極まりない原発など使うことは、本来ありえない話しなのです。
洗脳がない限り、できないことだったと思います。
天皇陛下が御進講の際に、内容が原子力に関係したことだったのですが、その際に、陛下から改めて、「原発は本当に安全なのか」のお尋ねがあり、それに御進講の担当者は「安全です」と伝えた、、、という話しをどこかで聞いたことがあります。
陛下もだまされていたことになるのでしょうか。御進講の担当学者が間違っていたわけですが、洗脳の正体は学者も動かし、あらゆる機構に及びます。しかし、それは権力者の恐れなのです。
洗脳が溶けていく時代に今、入っています。
人は本当におかしなことまでして働く必要などあるのでしょうか。
お金は大事なものですが、果たして、それを担保するものは何で、今でも、本当に価値があるのでしょうか。
私が確か高校生の時だったと思いますが、家でとっている新聞、確か朝刊だったと思いますが、一面に「水晶の中に太陽のエネルギーを閉じ込めることに成功」という記事が大きく載っていて、これでフリーエネルギーが得られると、ワクワクした記憶があります。
しかし、次の日になっても、その次の日になっても、続報がまったくなかったのです。
なぜなんだろう、、、と思ったのですが、今考えれば、フリーエネルギーが出回れば、石油も売れなくなるし、敷いては権力の構造が壊れるので、よくない記事にされたのですね。
こうした記事を取り上げる人は出世できなくなったり、冷や飯を食わされたりし、それを見た同僚たちは、都合のよい記事を書けば出世できると悟り、段々とおかしな時代を築いたのでしょう。
ともかく洗脳です。おかしなことをやるためには、おかしなことを真実に思わせるためには、洗脳はどうしても必要になります。
これがうお座時代ということですが、聖書の中にも、今後の嘘の時代を築く方向と、真実を隠して伝える方向の二方向が現れます。
都合の悪い個所は、おそらく聖書から省かれ、問題のないものだけが残されていった、、、イエスの弟子たちは、そうした事実を残す戦いの前線にいたことになります。聖書には、そのため、暗喩でしか言えない内容が存在します。
聖書編纂にはかなりの年月がかかっていますので、真実を伝えようとする人は、洗脳を目指す人と対決する形になり、本当のことを比喩や暗喩によって伝える以外になかったのだと思います。
そうした葛藤が見られる個所について、本日は取り上げたいと思います。
それは、ヨハネによる福音書の最後の章、21章に復活したイエスが登場する場面があるのです。
ヨハネ伝は福音書の中でも最後に編纂されたものですから、色々な邪魔や宗教支配にとって不都合がある個所は掲載が許されない、、、そんな状況があったかもしれません。
ことに、この最終章において、出てきた暗喩には高度な意味あいがあるように思います。ただしあくまで、私の勝手な感じ方であることは、先に申し述べておきます。
さて、何が書かれているかですが、復活したイエスがペテロの元に来て、ペテロを特別な弟子とし、子羊を育てる使命をお与えになった、、、という内容です。
ヨハネ伝は不思議でせっかちな終わり方をしている福音書です。まだまだ色々書きたいことがあるが、そうなると数限りないので、これだけにします、、、、というような終わり方。
不思議です。おそらく、自由に書けない状態だったと思います。また、聖書記事が正しく伝わるのか、イエスの言ったことを正しく、イノチある形で伝えられるかの、ギリギリの争いがあったようにも思われます。
そのため、不可思議な終わり方になっているのではないかと思うのです。
こうした最終章のおいて、切迫した思いを持つ最後の章に置いて語られたことには深い意味がきっとあります。
ヨハネ伝最後の記事は、イエスの指示によって湖で漁をした際に、153匹の魚が取れた、、、という話しです。
聖書の中に出てくる数字には色々ありますが、どれも象徴数であり、聞いているだけで、ああ、数を象徴的に使っているな、、、ということがわかります。
たまにそうでない個所もありますが、大体は、6とか7とか12とか、わかりやすい象徴数ですが、この153という数は変わっています。
イエスが漁を命じて、それが何匹であろうがどうでもよいようなものですが、聖書には忠実に153匹と書かれています。そこには、必ず、意味があるはずです。
153という数字には、重大な意味があり、イエスはこのことをもって、ヨハネ伝を終える、、、その最後の暗喩として153の魚の話しを放ったのです。
続きはまた明日にでも書かせていただきます。長くなりますので、本日はこれにて、一応、終えることにさせていただきます。
明日、またよろしくおねがいします。
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昨日の聖書の話しのつづきです。ただ時間がなくて、時間がきたら中断しますが、またそのつづき、、、を書きますので、その場合はご了承ください。 何だか大したことしてないのに、非常に忙しくて困ったものです。時間管理ややり方にきっと問題があるんだと思います。 もう少し意識的に行動しなくちゃダメなんでしょうね。人生も意識的に生きた人と、ただ漠然と生きた人生とでは、大きな違いが出るもの。 何がいいとは言えませんが、生まれてきた以上、何等かの役割というか個性があるはずですので、それを表明し、自分らしく生きることを決断することは大事だと思います。 さて、153匹の魚に込められた暗喩は、これまでにも色々な人が色々な形で述べています。 そこに共通するものは、驚きのメッセージです。暗喩にしたことで、さらに真実性が増して来ます。嘘は大体あからさまであり、真実は隠された形を取ることが多いからです。 153の数の上での性格ですが、これは、1から17までをすべて足した数になります。 三角数の17番目の数です。数霊術やひふみでも、またスエイデンボルグも言ってますが、高度な霊界の言葉はほとんどが数字だ、、、ということですが、数によって色々なことが原初的で根源性を失うことなく表現できるのです。 そのため、高度の霊界に於いて話す言葉は数字になる、、、というのはうなづけます。 1から17までの数を足したものが153ですが、17という数に込められたものがあります。 それは、7プラス10という構造です。 また、1プラス7=8 という概念も含んでいます。 どれも、実は救いと関係する数なのです。 7という数には、イエスとつながる人たち、、、の意味があります。 救済のイメージは常に7から出てきます。神は何度人を許すのか、、、、7の7倍、もしくは、7の70倍許す、、、と聖書に示されています。 聖書の神は怖い神の印象と、許しの神の印象の両面があります。それは人為的操作であったか、もしくは神々の戦いの結果であったか、それはわかりませんが、許しの神と怖い神の両面の姿が見て取れるのです。 しかし、新約聖書というイエスの時代においては、神は常に救いの神としてあらわされます。 救いというのは、いづれ救われる、、、という内容ではなく、すでに救われている表明をイエスは語っているのです。 だから、その内容を福音といいます。すでにイエスが十字架に付けられて、人々の罪を背負ったモチーフにより、人は救われている、、、というのが本当のキリスト教の姿でなくてはおかしいのです。 しかし、それでは教会権威化には都合が悪い面があったと思いますので、神と人とは直接につながることはできない、、、、だから教会が介在する、、、という形で教会が勢力を持つ時代が続きました。 しかし、イエスはそうは言ってない。私の名の元に複数の人が集まる時、私はそこにいる、、、という。教会の概念がイエスが語るものと、キリスト教会が語るものとの間には、微妙な差異があるように感じます。 あくまで私の個人の意見ですが、私はイエスの言葉に忠実でありたいと思います。 とはいえ、聖書編纂時には、昨日も言いましたように、色々な力や勢力が加わり、信徒らの思いが直接つたわりにくい面もあったように思うのです。 ヨハネ伝の最終章に置いて出てくる153という数を暗喩として使わざるをえない状況があったのでしょう。 これは、教会権威とは別の、直接イエスにつながる人の数を暗示した数なのです。 すべての3で割り切れる数は、それがたとえ数億桁であろうと、数兆桁であろうと、その数をすべて三条して和していくと、恐ろしいことに、すべての3で割り切れる数は153に行き着き、以降、一切変化しません。 3で割り切れる数の終着点はたったひとつ、153なのです。 3で割り切れる数とは、あらゆる数の三分の一になります。これがイエスとつながる人の数を暗示しています。 復活したイエスはペテロにあそこらへんに網を投げてみろ、、、と指示し、その結果、魚が網にあふれ、その数が153匹。 要するに私の網に捉えられる人間は三分の一、、、ということを言っていることになります。 イエスは以前にも、漁師に対して、私にしたがって来なさい、あなたを人間をとる漁師にしてあげよう、、、と語ります。 まさに、ヨハネの最終章で語られた内容は、さらにそれを推し進めた暗喩であり、イエスが救う人数に関係しているのです。 聴く耳のある者は聞くがよい、、、というイエスの一貫した態度は、もともとが、自分の言葉を受け止められる素養が持つ者と、ないものとに、けっこう厳密に分けた印象があります。 では、イエスは縁のある者しかお救いにならないのでしょうか。そうではないのです。 それが153のもう一つの意味であり、10プラス7なのです。 7というイエスの言葉、、、、すなわち福音を受け入れる人数が7 さらに何もわからない人の群れが10 結局はイエスはすべての人を救う、、、、というか、すでに救っている、、、、という内容になっている。 すでに救われているのですが、そのことを知らず、自分を自分で守るしかないという意識の前で、救われていることに気づかない人がいることも事実なのです。 不安と恐怖をベースにするということは、福音を知らないということになります。そして、そうした勢力が時代を支配してきた以上、イエスの存在や聖書の二重性の中で、私たちはこの二千年を生きてこざるを得なかったのです。 事実はすでに救われている、、、しかし時代支配の原理は救われていない形で進みます。 だから原発が必要となるし、金がすべてのような宗教的意識が生じるし、悪が存在するのです。 しかし、悪も福音の時代の前で、悪そのものの姿を見せることはできません。なので、人々を洗脳し、人々の自主性を頼りに私たちを地獄的なものへ追い込むしか方法はありません。 要するに、時代はすでに福音なのですが、閉じ込める意識そのものによって、私たちは自縛により、不自由になっているというのが、正しい時代認識なのです。 聞く耳のある者は聞くがよい、、、というイエスの言葉の中に、人は見ているものの違いがあることを実感せざるを得ません。 私の言葉が心に入る者が、三分の一、、、とイエスは語っているのですが、それでも私はすべての民を救う、、、という最終のイエスの言葉を暗喩にして表した数が153だったのです。 153の数の中には、イエスの本当に深い愛が込められたいることになります。 私も救われている、、、あなたも救われている、、なのにそう思えず、悪の仕組みの中で呻吟してしまう、、、、 聞く耳をもって、新しいイノチに入る生き方が今求められています。 聞く耳、、、太古から鳴り響く命の音、、、それと一体となるために、私はMIチューナーを開発したわけであり、また、母音トーニングを重要なものとして、行っているのです。 そして聖書の中にもそのことは語らているのです。144000人の人のトーニングがこだますとき、人類も地球も変化し、本当の福音の時代が訪れると。 それが水瓶座時代の到来なのですが、これも先取りされて、違った印象操作がなされてきた言葉です。 本物を乗っ取る、、、そして本物から命を捨てさせ、形骸化された者で人を集めて迷妄を深めさせる、、、このうお座時代特有のやり方に、終止符が打たれようとしています。 マドモアゼル・愛 公式SHOP |
CBCテレビのゴゴスマという番組に、大人の人生相談があります。
本日と明日の二回にわたって、私も出演。
すでに本日の分は終えて宿に戻ったところです。出張中が一番ゆっくりできるのですが、忘れていた締め切り原稿があるので、夜は原稿書きになりそう。
本当なら、熱田神宮やお城にも行きたいけど、せめてうなぎのおひつを食べる程度に。
ゴゴスマは初めて出演しましたが、出演者とスタッフがみなまじめに取り組んでいたのが印象的でした。
明日も午後2時半ごろから大人の人生相談がありますので、ぜひごらんください。
今日は、グリーンの池田山ファッションで出演したのですが、やや渋すぎて、おじいちゃんじゃないか、、、の反応が多かったみたいです。事実だから仕方ないけど、悔しいので、明日は持参している白系統の
麻の池田山ファッションで出演する予定です。明日は若返るぞ。(無理か、、、)
立って話す形なので、全身が出てしまうため、本日と同じ靴だとやや問題あり、、、(誰もみてないか)
あとで、うなぎ屋さんを見つけながら、靴を買おうと。
今週は放送づいてる週です。何といっても日曜はラジオ競馬ニッポンでの大イベントがあり、翌日がニッポン放送での収録。そして今日と明日がCBCテレビでの収録になりました。
ラジオのCBCではニッポン放送の人生相談をやってるみたいで、今日も反響があったようでよかったです。でも、テレビ的にいうと、こちらはTBSなのか。
TBSでは、大昔、長期アルバイトをした経験があります。アルバイトから嘱託になり、TBSには2年半ほどお世話になりました。そのころ、なんと、飯島秀行先生も学生時代だと思いますが、TBSでアルバイトをしていたという話しを聞いたことがあり、勝手にですがご縁を感じます。
しつこいですが、日曜のラジオ競馬ニッポンでは、その予想がけっこうな線をいき、この馬は絶対、、、という感じで押したストレイトガールが一着。二番目に、私のもっとも狙っている馬として押したウキヨノカゼが3着に入るという結果に。もう何度も言ってるか、、、。
しかし、ゴンドラ席という上から見た競馬場の景色はとてもきれいでした。
今週は土曜日に、マドモアゼル・愛が読む「時局」があります。翌日曜日の無料セミナーは、「元気になる生き方、元気を失う生き方」と題してお話しさせていただきます。日曜日の無料セミナーは午後2時からです。お待ちしています。
土曜日はMI池田山ハウスはオープンしていますが、時局のセミナーがあるため、ほかに特別な無料セミナーはありません。
下の動画はスターリングエンジンが始動しているものです。ミニチュアの小さなエンジンで、アルコールランプの火との温度差によってエンジンは回ります。
一見、アルコールを使用していますので、エネルギーを使っているように見えるでしょうが、あくまで、熱を引き出すためです。
20度以上の温度差を用いて、スターリングエンジンは回転を始めます。20度以上の差は、地熱を利用してもできるし、外気と部屋の空気の温度差を利用してもできます。
20度以上というのは、理想の話しであって、性能良いものは、多少の温度差でも回転運動を開始します。手の平に乗っけるだけで動きだすスターリングエンジンもあります。
熱源さえあれば、それがアルコールランプであれ、温かな部屋の空気でも、温泉でも、熱が出る工場などでも、有効にその熱をエネルギーに変換できるわけです。
太陽光しかり、何でもいいのです。熱があり、それよりも異なる20度の温度差があれば、無尽蔵にエネルギーを作り出す、、、それがスターリングエンジンです。
この原理は非常にシンプルで簡単で、実は200年前にすでに発明されていたものなのです。しかし、時代は重さや大きさを競う巨大化の時代となり、スターリングエンジンなど、目にもくれなかった、、、、
その結果、私たちは、原発などのようなお化けを、たかが電気を得るために作り出すという愚かなことをしてしまったのです。
スターリングエンジンの本格的なものを作れば、簡単に3キロワット程度の発電を得られるようです。巨大なものでも微細なものでも、原理は同じですから、応用性があります。
熱の差による発電というとわかりやすいのですが、本当は熱の膨張差によるものと違い、温度差があればそこを埋め合わせようとする原理が働き、それが吸引化を起こしてエネルギーを呼び込む、音叉現象とまったく同じのフリーエネルギーなのです。
ですから、スターリングエンジンが動いている場には、吸引化が起きているはずです。蝋燭を見ていて心休まるように、エンジンを発電しているのでうるさいにも関わらず、不思議と心休まる光景になります。
動画をみていただけるとわかると思いますが、エンジンが回転している際には、騒音であるものの、何か安心した心地が伝わるのではないでしょうか。
スターリングエンジンに限らず、異なる方向に行っている違ったものは、そのギャップを埋め合わせようとする力が加わり、その際に本当のエネルギーを呼び込むのです。
多少大型の家庭用スターリングエンジンを作れれば、(簡単に作れるのですが)3キロワット程度の発電が可能だそうです。家一軒分の電力が簡単に賄えるわけです。
昔、出口王仁三郎は、電柱がある時代はまだ悪い時代だ、、、と言っていました。
各家庭でそれぞれフリーエネルギーで発電していく、、、そうした時代がもうすぐやってきます。ロートルなスターリングエンジンでさえ、それが可能なのです。まして、水で走る自動車ができるわけで、今さら原発などというのは、自分の利益にかかわる人しか言いません。
しかも、大勢の人を犠牲にして自分の利益を保持したいとは、その人の成長のためにも良くないことなのです。
では、スターリングエンジンの軽快な音、その発電能力をご覧ください。途中で、エンジンが止まってしまう場面がありますが、再び始動し出した際に、音はうるさいにもかかわらず、通常のモータ―音よりも心が休まる思いになるのは、私だけでしょうか。
そうではないと思います。原発からやってくる電気には、私は人を幸福にする力はないと思います。
当ブログのHOMEにて、池田山ファッション専用のショップを作成中です。そのため、商品販売は停止していますが、池田山ファッションのイメージ画像はご覧いただけます。ホームの池田山ファッションの画像をご覧ください。
墓地へ行くのが趣味という人がいる。老人ではなく壮年であったり、若者である場合も。
墓地にいると心が落ち着くというのだ。
縄文にもアイヌにも世界の先史文化には、死者や死の世界との交流がある。
元一というすべてが一体という世界観からは、死者も生者も同じ出所になる。
私も死者への瞑想を行うことがある。死者への瞑想とは、すでに亡くなった人を一人一人思い出し、
尋ねる瞑想。
面白いのは、生前はあまり仲よくなかった人とでも、まったくこだわりなく逢うことができることだ。逢うといってもこちらが勝手に逢っていると思っているだけで、死者がメッセージをくれるというような通信とは違う。
勝手な思いであっても死者への瞑想は素晴らしいものがある。
まず、亡き両親、、、祖父母、、そして知人と続いていく。いつしか死者の世界と現世が一体となっている感覚に襲われて行く。もっと言えば、違いがない一体の構造である感覚になる。
昔はどの家にも仏壇があったり、死者とつながる方法があったはずで、縄文時代などは、死と生の解離がほとんどなかったのかもしれない。
わかっていることは、全員が死ぬ、、、ということで、逆に言うと、全員が死なない、、、とも言える。
死ぬのは現世的な物理で、死なない世界は永遠となる。
しかし私たちが生きているとき、その価値は逆転していて、物理的なものを求めて本質をゆがめていても現世ではそのことに気づけないでいることが多い。
世界一金持ちになっても、世界一健康でも、頭が良くても、それは現世の出来事なのだ。その現世の出来事に必死になってしがみつくのが私たちの姿だが、死者の世界を見てみると、そうしたものは残らず、結局残るのは、死者の人柄だけになる。
生前、金を求め、権力を求めて必死だった人に、あの世で逢ってみると、残っているのは、人柄だけなのだ。死んでしまっているのだから当たり前だけど、本当に面白い感覚になる。
誰でも必ず肉体は死ぬのに、必死になって、肉体的なものの維持のために、肉体的なものの優越のためにがむしゃらになっていく私たち、、、
死者の瞑想では、死んでもっていけるものが何かを教えてくれる。そして、死ぬべきもの、、、なくなるものにしがみつくことで、必死になることで、私たちは自身をどんなにか傷つけているかに気付くことになる。
生前事業で大成功したが土地の買い付けで失敗し、再起をかけて命掛けで努力していた人がおり、私も逢ってきました。結局あの世で触れ合えたのは、お互いの人柄の交流だけでした。
死者の世界はですから、けっこう気楽な印象がありました。
本当に私たちは死んでなくなるもののために、必死になりすぎ、今ある、人柄や身近な人との関係をどんどん壊しているような気になってくる。
死んでも死なない私たち。ならば、残っていくものを大事にした生き方がやはり正しいという気持ちになってくる、、、、それが死者への瞑想です。
すべての出所はひとつ、、、それは空でしかありえず、空であるが故に死者の世界も包含できるわけです。
飯島先生がおっしゃる、形あるものには、何の力もないのです、、、は、本当なんです。
今週の週末予定は、土曜日の無料セミナーは瞳を輝かせる微細なタッチ法を午後二時から。
魅力的な目に挑戦したい人はいらしてください。指先のみによる微細なタッチBB法にきっと驚かれます。
指だけによる、他に何も使用しないタッチ法です。
日曜日の無料セミナーは前述した死者への瞑想法を実践します。麻の布をまとってやりたいと思います。
こちらも午後二時からです。
普通11月も下旬になると、まだ寒さへの耐性がないためか、体感的には一年中で一番寒い時期とも感じられるのに、このところの温かさは異様な程です。
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次の日曜日は有料セミナーになりますが、528hzのすべてと題して行います。 528hzに関しては、ジョンレノンのイマジンに528Hzベースの音が常に流れているとか、また、太陽が出す音を電子音で聞くとそれが528Hzであるなど、色々言われています。 しかしジョンレノン以前、また太陽の音はおそらくソーホーという太陽探査衛星から来た情報だと思うのですが、そんな最近のことではなく、528Hzはメジャーな周波数としてかなり前から取り扱われてきたと思います。 私が占星術や、形而上的な世界に入ったのがもう40年も前ですが、その時から528Hzはあったと記憶しています。 その後、チューナーに出会い、チューナーによる癒しのセッションを知りましたが、その際にも、ヒーラーは528Hzのチューナーを重視していた記憶があります。 なぜ、どこから、この音が伝わっていったかを一度きちんと調べてみようと思ったのですが、よくわかりませんでした。 現在、528Hzが過去に増してメジャーになりつつあるのは、先述したジョンレノンや太陽の出す音などもあるにはありますが、やはり、ブレオ博士などの考えが、書籍に発表されたことが大きかったかもしれません。 ホロウイッツ博士が書いた、「ジョンレノンを殺した凶気の調律A=440Hz」のことです。しかしこれは440Hzが問題というよりも、平均律に問題があると考え、純正律によれば、Aが440でも528Hzは得られることになり、440Hzが悪いという根拠が薄くなる構造をしています。 そこらへんがまだあいまいな印象があるのですが、どちらにしても、528Hzが特別な周波数であることは、純正律からも言えるわけです。 528Hzが順正律から得られるのなら、基音Aが440Hzでも構わない、、、とも考えられます。 また、基音Aを今流行の444Hzにすると、上の高い方のドの音が約528hzになるため、そうした調律が流行しています。 ヘルベルトフォンカラヤンは、コンサートホールで演奏する際に、445Hzを用いたという話しです。自然に下がる部分を計算すれば、まさにどんぴしゃりと上のドが528Hzになったわけです。 いずれにしても、色々な工夫をして、528Hzを呼び出す試みが音階形成の中にあることが非常に面白いと思います。 これがどういうことかというと、皆、どこかで528Hzを求めている、、、ということになりはしないでしょうか。 特別な音、、それがかなり以前から528Hzだったのです。この音がどのようにして現在まで生き延び、つながっていたかは不明です。 ブレオ博士はカソリックに通って調べたものの、それを見つけることも協力を得ることもできずにいましたが、神に祈ることで、イエスが夢枕に立つことで、528Hzの秘密を知ることになるわけです。 しかしそのルートとは別に528Hzは自然伝承的に残されてきたことが私には非常に面白く、関心があります。 昔は周波数という考えや振動を把握する方法などなかったと思いますが、糸やゲンの長さで音を保存することはできたと思うのです。 命の音である528Hzも、おそらく糸やゲンの長さによって保管維持されて命を保ってきたのかもしれません。 そして段々とわかってきたのは、この音が古代音階の中心音であったということです。ソルフェジオのMIが528Hzであることが、後になって整合性をもってはっきりしてくるのです。 古代の知恵は、こうした不思議な命をもって世に再現されることがあります。 一部の人の間では有名な、秀真伝という書物がありますが、秀真文字という幾何学的な造形による文字で書かれた古書でした。 その昔、確かうろ覚えですが、まだ秀真伝が世にでる前、この書物は四国の小笠原家に保管されていたのです。 そのことを調べたのは、秀真伝を世にだした三浦さんという方だったと思います。間違っていたらごめんなさい。 確か、大手出版社にお勤めされたのち、行者のような感じで山登りをされていたと聞いたことがあります。その際に、小さな祠の前で休んでいると、この神の由来がわからないだろう、、、というようなメッセージを受け取るのです。海外のことばかり学んでもしかたないぞ、、と。 それから確か三浦さんだと思いましたが、三浦さんは秀真伝に行き着き、その古書が四国小笠原家に残されていることを突き止めます。 その夜、はやる気持ちは小笠原家に電話をしたらしいのですが、その際に、小笠原家の方は、電話口で泣きだされたと。 「古来から伝わる大切な書であることはわかるのですが、どう扱ってよいかもわからず、保管するにしても、虫は喰い、このままでは荒れ果ててしまう、、、それでは先祖にも申し訳が立たないので、明日、お焚き上げする予定でした」 こうして、秀真伝は明日この世からなくなるという前日の晩に生き延びることができたのです。 一人の必死な思いと追求の努力によって、秀真伝は世に残ったことになります。またそれは、書物に命と力があったからとも言えるでしょう。 528hzも同じような構造の元に、イノチを長らえ、現代に再びクローズアップされてきていると思います。 日曜日の528Hzセミナーでそこらへんのところも詳しくお話しする予定ですが、ともかく体験会場にしていくつもりです。 528Hzの音叉箱を数分に一度鳴らしながらセミナーを進める予定です。二時間から三時間の間、数分おきに528Hzを鳴らします。音叉箱での音ですので、パワーが違いますから、腹に、体に、頭に入りこむことでしょう。 そして体感として、528Hzが参加者の意識と肉体をどのように変えていくかも、同時に味わうことを目標にしています。 昔、ソルフェジオの古代音階を聞いた教会では、神と直接人がつながり、愉悦を感じたと言われます。 しかし、それは神の代理人としての法王の存在を無視しても信仰が維持できることとなり、ソルフェジオ音階、すなわち528Hzは教会にとってはよくない構造となるわけです。 そのせいかどうかはわかりませんが、歴史の中からソルフェジオと528Hzは消えていきます。 ですが日曜のセミナーでは教会ドームの中で聞いた音に近い音叉箱の528Hzで数分に一度鳴らし続けますので、時の流れと共にどのような内的変化が起きるか、とても良い実験になると思います。 法悦の思いが浸透してくるなら、この音と周波数に命が宿っていることがわかると思います。 日曜日の午後2時からのセミナーですが、こちらはすでに定員に達しています。上記の内容で行いますので、そこで得た新たな情報などを後にブログでアップいたしますので、上述内容に関心があった方は、ぜひご覧になってください。そのために、日曜セミナーの内容のご案内をさせていただいた次第です。 話しは秀真伝に戻りますが、火難除けのマントラがあるのです。私は偶然ですが、春の乾燥しきった松林で火事を起こしたことがあり、イノチから柄「そうだ、秀真伝に確か火難除けがあった、、、」と、大火の中で思い出し、呪文を唱えました。 すると、松林の火事が終息していったのです。後から来た消防隊が、おかしい、、、それにしても不思議だ、、、としきりに言っていました。 確かに、春の乾ききった松葉ほど燃えるものはありません。その松林の火事が自然終息したのです。 後で調べると、小笠原家では四国の大火を屋根の上に上ってこの呪文を唱えて消し止めた、、、という話しがあったそうです。 マドモアゼル・愛 公式SHOP |
初老の私がベビー用品売り場で、哺乳瓶やピジョンの乳首をたくさん買い求めたので、店員は奇妙な顔をされていた。 孫のためにしては、哺乳瓶やおしゃぶり用乳首の大量購入は謎である。 実は今度の土曜日に行うセミナー準備のための買い物でした。「甘えセミナー 赤ちゃんになっちゃおう」 多くの問題の基本にあるのが、満たされない甘え。甘えが満たされないうちは、人は本当の意味で大人になることはできません。 日本人は大人のふりが早い上に上手。そのため満たされない甘えはくすぶりつづけ、色々な問題を大人になってからも起こすことになるわけです。 愛されなく育っても、親以外の人から愛を知ることはできますが、満たされない甘えはよほどのことがない限りそうはいきません。 恋人に甘える、、、夫に甘える、、、、うまく行くケースも多いでしょうが、いつも満たされるわけではない。 現実の状況が愛情関係においても優先されますので、甘えの欲求は後回しにされます。 そしてくすぶった甘えの欲求を持ちながら、子を産み、親になっていく。 うまく行くほうが稀かもしれない、そんな状況が甘えの観点から見えてきます。 では、甘えを満たすとは、どういうことでしょう。簡単に言うと、ものすごいわがままを通すことであり、通せることによって、甘えの感情は満たされます。 お水が欲しい、、、、あん、早く、、、、ごめんごめん、はい、もってきたよ。お水。 やだ、遅い、もういらない、、、、ああ、ごめんね。じゃ温かいミルクにしようね、、、、 やだ、それもいらない。ごめんごめん、、、じゃ、お水をもってこれなかったパパをぶってもいいよ、、、、 はい、ぴしゃ、、、そこで子供は笑い出す。甘えは満たされたことになります。 これほどのものすごい構造が甘えにありますので、これを本気で満たすなど、至難の業であり、よほど親の意識が高いところにない限り、子供は甘えを満たすことは完全にはできません。 では、甘えが満たされずに不満を抱きつつ育った私たちは、その不満をどのように解決できるのでしょうか。 次の段階は、親や自分と密接に関係する人が、自分のことで、苦しみ、悩む姿を見ることによってなのです。 自分の理不尽な問題により、親や愛する人が、真剣に悩み、苦しむ姿を見て、子供というか、甘えが満たされずにそだった人は、安堵します。 わかった、、、許してあげる、、、という内的和解へ導くことで、満たされなかった甘えを終えることができるわけです。 幼少期の甘えが満たされずにいたなら、その子はきっと成長期に親を苦しめます。困らせます。そして、親がそのことで悩み、苦しみ、真正面から逃げずにいてくれることで、次の解決に導かれる、、、、こうしたケースが多くなります。 では、その際も親や愛する人が逃げたとしたら、、、大きな不幸をもたらすような形で運命の変転を周囲を巻き込みながら拡大させていくわけです。 甘え、、、、何と凄いものがあるのでしょう。 この重要性に気づかない現代人ですが、そのために多くの問題を引き起こし、エネルギーを消耗し、時代を不安定にさせているとも言えるでしょう。 心理的に一度退行し、甘えを満たすとは何かを実体験として得てもらうセミナーを行います。 冥王星バイアスが非常に時代的危険をもたらしているのを感じますが、まさに甘えの充足以外に、こうしたバイアスを溶く方法はありません。甘えが満たされると、もう自分にこだわらなくなるからです。自分へのこだわりが強いと、どうしても冥王星バイアスを深めてしまいます。 親に甘えられなかった人は、自然や宇宙の仕組みに甘えることが本当はできるのですが、どうしても、自分を取り巻く空間を支配することで、その虚しさを埋めようとしてしまいます。 金融の行き過ぎも戦争もいじめも、同じ原理が働いています。あらゆるパワハラですね。 国家自体が暴力装置となっている現状など、悲惨この上ないのですが、大本にはおっぱいの乳首を無理やり引き離された不満があるわけです。 甘えのお遊びでもいいので、ぜひ、親子、友人と、恋人と、一度やってみてください。素晴らしい効果が期待できます。生きることが楽になるはずです。 |